韓国に残る日本史の風景
司馬遼太郎の作品には、韓国の風景が繰り返し登場します。小説の舞台として描かれるだけではありません。日本の歴史を考えるとき、朝鮮半島との関係を避けて通らなかったためです。古代の日本列島で国家が形づくられていく過程には、百済、新羅、加羅と呼ばれた朝鮮半島の国々が深く関わっています。文字、仏教、土木、建築、金属加工、医薬、儒教的な知識など、当時の先端文化を日本列島へ伝えた人々の多くは、海峡を越えて渡ってきました。司馬氏は、日本史のなかに残された韓国の痕跡を探すように、朝鮮半島の土地と人を見ています。
その視線がまとまった作品が、『街道をゆく』第2巻の「韓のくに紀行」です。司馬氏が韓国を訪れたのは1971年5月で、日韓国交正常化からまだ6年しかたっていません。日本人が韓国を身近な海外旅行先として訪れる時代ではなく、両国の市民が気軽に往来する環境も整っていませんでした。そのなかで司馬氏は、韓国を日本文化の材料として扱わず、独自の歴史と尊厳を持つ国として見ています。日本史の人物を徹底して追い、その行動を大胆な言葉で描いた作家としては、韓国に対する態度は慎重であり、土地の記憶に耳を傾けようとする姿勢が際立っていました。

1971年に歩いた韓国
「韓のくに紀行」で司馬氏が訪ねたのは、釜山、金海、慶州、大邱近郊、扶余などです。釜山から金海に向かい、加羅の故地を訪ね、慶州では新羅の文化に触れ、最後に百済の旧都である扶余を歩きました。現在の韓国旅行なら、高速鉄道や整備された道路を利用して短時間で移動できる地域ですが、当時は地方の農村風景が色濃く残っていました。司馬氏が見たのは、大都市の近代的な表情よりも、村のたたずまい、白い服を着た老人、屋外で酒を酌み交わす人々、祖先を敬う習慣でした。
慶州郊外の仏国寺付近では、人々が野外に集まり、食事や酒を囲む光景から、万葉集に記された歌垣を連想しています。掛陵の近くでは、老人たちの酒席に加わり、言葉を交わしました。司馬氏にとって、そこにいた人々は観察の対象ではありません。書物のなかでしか知ることのできなかった古代の生活が、韓国の農村にまだ残っているように感じたのでしょう。現在の慶州は、新羅王陵、仏国寺、石窟庵、月城などを巡る歴史都市として知られていますが、司馬氏が訪れた頃には、遺跡と日常生活の距離が今より近く、古墳の周囲にも土地に根づいた暮らしが広がっていました。

百済に寄せた思い
司馬遼太郎が韓国で最も強く心を向けた地域は、百済の旧都である扶余でした。百済と古代日本は、外交上の交流にとどまらず、王族や貴族、僧侶、技術者、学者が往来する関係にありました。日本に仏教を伝えた国として知られ、寺院建築、仏像制作、暦、医学、儒学などにも百済系の人々が関わっています。百済が660年に滅亡すると、日本は復興を支援するため朝鮮半島に軍を送りましたが、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れました。その後、多くの百済人が日本列島に移り、朝廷や地方社会の形成に携わっています。
司馬氏は扶余で、日本から百済救援に向かった兵士たちの心情を考えました。彼らにとって百済は、遠い外国だったのか。それとも、親族や知人が暮らし、文化と政治を共有する身近な国だったのか。現代の国境感覚をそのまま古代に当てはめれば、この関係は見えにくくなります。当時の瀬戸内海、北部九州、対馬、朝鮮半島南部には、人と物が海を越えて行き交う世界がありました。司馬氏が扶余で見ようとしたものは、韓国に残る日本の起源ではなく、朝鮮半島との交流を含めて成立した日本の姿だったといえます。
現在の扶余を訪れると、百済文化団地、国立扶余博物館、定林寺址、扶蘇山城、落花岩などから、百済最後の都の輪郭をたどれます。町は大規模な都市ではありませんが、錦江の穏やかな景色と低い丘が続き、王都が置かれた地形を身近に感じられます。司馬遼太郎の文章を読んでから歩けば、日本史の外側にある外国としてではなく、古代東アジアを構成したひとつの中核として、扶余の風景が見えてくるでしょう。

韓国への敬意
釜山の龍頭山で司馬氏が向き合ったのは、李舜臣の像でした。李舜臣は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に際して水軍を率い、日本軍と戦った人物です。日本側の歴史だけを見れば、豊臣政権の大陸政策や諸大名の戦いとして語られます。しかし韓国では、国土を守った英雄の物語として記憶されています。司馬氏は李舜臣を単なる敵将として扱わず、国を救った海将として敬意を示しました。日本人の立場を離れたふりをするのではなく、自分が日本人であることを承知したうえで、韓国側の歴史に向き合っています。
この態度は、当時としては珍しいものでした。1971年の韓国は朴正熙政権下にあり、急速な工業化が進んでいた一方、植民地支配の記憶は社会のなかに強く残っていました。日韓両国の交流も現在ほど広がっておらず、日本人が韓国側の歴史認識を知る機会は限られていたのです。司馬氏は、日本と韓国が近いという事実だけで両国を同一視しませんでした。古代には文化や血縁が重なっていても、韓国には韓国の歴史があり、日本の侵攻や植民地支配を受けた記憶があります。その距離を軽く扱わず、それでも両国の長い関係を考えようとしています。
大邱近郊では、豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際に朝鮮側へ投降したと伝わる日本人武将、沙也可の足跡を訪ねました。沙也可は朝鮮名を金忠善とし、その子孫が暮らす友鹿洞に伝承が残されています。司馬氏は伝承をそのまま史実として受け取らず、人物の出自や名前の由来を慎重に考えました。それでも、日本人武将が朝鮮に残り、その社会の一員となった物語に関心を寄せています。日本と韓国の歴史は、国同士の衝突だけで完結せず、国境を越えて生き方を選んだ人々によっても形づくられてきたからです。

いま見える司馬氏の韓国
司馬遼太郎が見た1971年の韓国と、現在の韓国は大きく変わりました。釜山は高層建築が並ぶ港湾都市となり、慶州の史跡は保存と整備が進み、扶余では百済文化を伝える施設が充実しています。高速鉄道や高速バスを利用すれば、ソウルから慶州や釜山、扶余を組み合わせた旅程も組めます。司馬氏が出会った白衣の老人や農村の酒席を、そのまま探すことはできません。しかし、司馬氏が見つめた地形、古墳、寺院跡、川、海峡は今も残っています。
現在は、韓国の映画や音楽、料理、ファッションを通して、日韓両国の距離が身近になりました。若い世代を中心に互いの国を訪れる人も増え、東京とソウル、福岡と釜山を日常的に行き来する感覚も生まれています。その一方で、歴史に関する話題になると、古代の交流、豊臣秀吉の朝鮮侵攻、植民地支配が別々に語られ、ひとつの長い時間として捉える機会は多くありません。司馬遼太郎の韓国紀行を読むと、これらの出来事が同じ土地の上に重なっていることがわかります。

釜山の龍頭山で李舜臣を見上げ、金海で加羅を思い、慶州で新羅の古代文化に触れ、扶余で百済と日本の関係を考える。司馬氏が歩いた行程は、そのまま韓国南部の歴史をたどる旅行になります。韓国を訪れる前に「韓のくに紀行」を読んでおけば、王陵や寺院跡が単なる観光名所ではなく、日本史にも続く場所として見えてくるはずです。
司馬遼太郎の見た韓国とは、日本に似た国でも、日本文化の源流だけを保存した国でもありませんでした。近い海を挟み、古代から人々が往来し、ときに対立しながら、それぞれの歴史を築いてきた隣国です。司馬氏は韓国のなかに日本を探したのではなく、韓国を見なければわからない日本の姿を探していたのでしょう。日韓関係がかつてより身近になった今だからこそ、その視線は明瞭に理解できるのだと思います。


